20110731
- 1. カール?ポパー
1902 年 ウィーンの中流家庭に生まれる。
ユダヤ系だったが両親はキリスト教に改宗
1928 年 ウィーン大学で博士号
哲学者として研究をする
1929 年 「科学的発見の論理」出版
1937 年 ナチスのオーストリア侵攻によりニュージーランドへ移住
「開かれた社会とその敵」出版
終戦後 イギリスに移住、ロンドン?スクール?オブ?エコノミクスで助教授、教授
ジョージ?ソロスはここの学生だった
普通の学者の経歴
科学哲学という分野を一貫して研究
意図せず経済実務家に影響を与えた(ソロス、タレブ)
科学の発展の解釈が変だと批判:論理実証主義(ノイラート、カルナップ)
↑ホワイトヘッド、ラッセル、ヴィトケンシュタイン
科学ではないと批判:初期の精神分析(フロイト)、帰納主義?弁証法(悪用したマルクス)
↑ヘーゲル
パラダイム?シフトの解釈で議論:クーン
文献
「推測と反駁 ~科学的知識の発展」( http://www.amazon.co.jp/dp/4588099175/ )
「ポパー哲学への手引」( http://www2.plala.or.jp/kohsaka/page017.html )
「カール?ポパーの生い立ちと哲」( http://ocw.nagoya-u.jp/files/45/sp_note03.pdf )
「科学哲学における線引き問題の現代的展」
( http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~tiseda/works/demarcation2.pdf )
本資料の原文
「水田孝信は考える」( http://blogs.yahoo.co.jp/mizuta_ta/archive/2011/4/13 )
- 2. 第1部 ソロスとタレブ
■ 金融と哲学
診断士協会のとある研究会で、
「金融の実務界で重要な役割を果たしている哲学を紹介し
てくれ。」と頼まれたことがありました。ここでいう「哲学」は、「投資哲学」といったよ
うな特定分野の原理原則という意味ではなく、アリストテレスやソクラテスのようなガチ
の哲学です。そのような意味で哲学を意識している人はジョージ?ソロスしか知らなかっ
たのでまずはソロスを紹介しました。しかし、いろいろ調べてみると、ソロスは科学哲学
者であるカール?ポパーの影響を大きく受けており、また、
「ブラック?スワン」の著者で
あるナシム?ニコラス?タレブもまた、ポパーの「白いカラス」の話を参考にしたと思わ
れ、影響を受けていると思われます。そこでポパーについて紹介しようと思います。とて
も長くなるかもしれませんが、まずは、ポパーが何者で、ソロスとタレブにどんな影響を
与えたか紹介しようと思います。
■ ポパーは金融の人ではない
ポパー(1909 年-1994 年)は科学哲学者とよばれる分野の学者です。彼自身は金融につ
いて何かやったことはありません。専門分野は簡単に言うと、
「科学と似非科学の境界線は
どのように決められるか」というものです。ここでいう「科学」とはかなり広い意味で用
いられており、いわいる「自然科学」に限ったものではありません。これを説明するのは
難しいのですが、誤解を恐れずに簡単に言うと、ある主張が頑健性が高く正しいかどうか
十分議論されていることを「科学的」といい、とくに根拠なく主張をしていてその確から
しさが揺らいでいるものを「似非科学」とよびます。例えば、政治では継続性が高く正し
く行われ続ける政治の仕組みを科学的とよび、いずれ恐怖政治などの押さえ込みが必要に
なるような政体を似非科学的とみなします。
■ ソロスとタレブ
ポパーは金融と無縁だったにも関わらず、ポパー哲学が金融で引用されるようになった
のは、金融工学がポパーの基準で言うと科学ではないからです。ポパーの考えはいずれ書
くとして、まずはソロスとタレブがどんな風に引用したかを述べてみましょう。
■ ソロスと誤謬性
ポパーは科学の進歩とは、大胆な「推測」とそれを批判して否定しようとする「反駁」
である、と考えています。誤っているかもしれない推測、つまり誤謬性を伴った推測が、
反駁に耐えられるかどうか試されているという連続であり、確定した「正解」はないとい
う考え方です。ソロスはこれを株価の実態価値に当てはめました。正しい実態価値があら
かじめ知っている人がいる、などという前提はありえないと考えたのです。株価の動きは、
- 4. 黒い」と「全てのカラスが黒い」では、全く意味が異なるのです。そして、前者は統計的
に高い確率で起こる事象、後者は低い確からしさの大胆な推測、となり、確率の高低が逆
転します。
■ タレブの主張
金融工学は統計学的なアプローチで確率が高い事象は何かを議論します。それゆえ、
「こ
ういうことは過去の環境下においては確率が高い」というのは正しいのですが、タレブは、
金融工学の学者達の中にはそれをもって「だから今後もこうなる」と考えている人たちが
いて、大きな過ちであると主張しました。つまり金融工学では「これまでの環境では黒い
カラスが多かった」とまでしかいえないのに、
「今後もずっとカラスは全て黒い」と主張し
たり、そう思い込んでいる人たちがいて、大きな過ちを引き起こすと警告していたのです。
統計学的に有意差があることと、絶対法則として成り立つこととは全く違うことなのに、
それを混同していると問題を指摘したのです。
■ ノーベル賞批判
彼はノーベル経済学賞をなくすべきだという主張をしています。文学と平和の各賞は別
にしても、物理、化学、医学などと比べ、経済学が科学といえるほどのきちんとした学問
ではないということが主張の根底にあるようです。そのような学問にノーベル賞などとい
う権威を与えてしまうと、
「可能性が高かった」だけの事象が「絶対法則」と勘違いされて
しまうことを危惧しているのでしょう。
■ ソロスやタレブが考える金融工学が科学ではない理由
ポパーの考える科学的な進歩の中では、少しでも反駁されてしまったものは推測が正し
くなかったと認め、推測を修正または破棄しなりません。物理学などの世界ではこれは常
識中の常識であり、一回でも物理法則に反する実験結果が出てきたら、法則かその実験を
疑い、どちらを破棄するか議論が始まります。ただ、金融工学では間違いなく多くの現象
が金融工学の前提を覆しているにも関わらず、その前提を破棄したり修正したりせず、そ
の前提を維持するための理屈を盛ってこようとする学者が存在します。実は、私が知る限
り、定量的な分析が出来る学問分野の中で、唯一、金融の学会だけがこのような状態にあ
り、ポパーから言わせれば、科学的な議論がなされていない状態にあります。これほど実
務家と学者の距離が遠い分野も珍しいでしょう。ソロスは、このような学者達が市場効率
仮説の既得権益にすがるために、非科学的な議論を展開しているとして、金融工学を似非
科学とみなしているようです。タレブはさらに、古典的統計学を悪用して、学者達が詭弁
を行っているとして、金融工学を似非科学とみなしているようです。
■ 2 人を拒否する学術界
- 5. これだけの論述を展開しながら 2 人を受け入れない学術界ですが、他分野ではまったく
ありえない話です。少なくとも私が知る限り、定量的な分析が出来る学問分野の中では、
こんなことが起こるのは金融工学だけでしょう。それだけ、純粋な学問的な要素以外で、
既得権益が存在しそれを守ろうとしている人たちが一部に存在するということでしょう。
時々、 人の主張は学術界で取り上げられてないから、彼らの主張は間違っている」とい
「2
うことを言う人がいますが、まさにこれこそが、学術界が似非科学を展開している証拠な
のです。多くの学者たちが 2 人の考え方を取り入れて学問を発展させたいと願っている一
方、一部のそれを阻止しようとしている人たちが存在し力を持っていることは、人類の進
化にとって障害になっていると言わざるを得ません???。
(第 1 部 ソロスとタレブ 終わり)
第2部 推測と反駁
■ 推測と反駁とは何か
さて、ポパーの主張そのものを見てみましょう。私は、「推測と反駁 ~科学的知識の発
展」( http://www.amazon.co.jp/dp/4588099175/ ) という本を読みましたが、800 ページ以
上ある書籍でとても読むのが大変でした。しかも、事例のほとんどが物理学に関わること
で、哲学書にも関わらず物理を勉強したことがない人には読書に相当な困難が伴います。
ハッキリ言って読むことをお勧めしません。私は 3 ヶ月間以上の週末を使ってしまいまし
た。ここではこの本に描かれていたポパーの哲学を、正確性は欠いてもなるべく分かりや
すく書こうと思います。
■ 法則は直感から生まれる
法則というものは、突然、直感から生まれます。初めは全ての法則は「推測」されたも
のです。ポパーは物理を例にあげていますので「法則」と書きますが、これは物理に限ら
ず広く一般に当てはまるものですので、
「発明」「
、(経営などの)戦略」「政策」「アイデ
、 、
ア」なり、いろんなものに当てはまります。が、以下「法則」と書きます。法則は必ずし
も、観測を積上げたり過去の法則の延長線上にあったりするわけではありません。もちろ
んそれらは参照されていますが、ポパーは本質的には断絶のある、突然の推測であると考
えています。
■ 例:万有引力の法則
例えば、ニュートンが発見した万有引力の法則は、それまでの物理学の延長線上にあり
ません。
「力」という今までになかった架空の概念を、直感的に、持ち込むことにより、ニ
- 6. ュートンの推測として万有引力の法則が唐突に出現しました。このような推測は、リンゴ
の落下をただひたすら見ている、
「観測」しているだけでは出現せず、また、それまでの物
理法則をいくら詳細に知っていても、推測なしには出現しません。このように全ての法則
は、何の確信のない、推測でスタートします。
■ 反駁
ポパーの「推測と反駁」の続きです。何の確信もない推測で始まった法則は、その真偽
をテストしなければなりません。間違っていることを立証しようとすることを反駁といい
ます。推測された法則は、数々の反駁に耐えて、初めて法則となるのです。
■ 価値のある推測
その法則が、あり得なさそうな、そしてシンプルにもかかわらず多くの現象を説明でき
るほうが、価値が高いです。反駁の可能性が高い、つまり一見、成立しおうにない法則(確
証性が低いという)のほうが良いとされます。よい法則ほど反駁の手段が多く用意されて
います。その法則は多くの批判的テストにさらされます。その批判に耐えられたもののみ、
法則として生き残るのです。ただ、反証されたとしても人類に別の形の知見を残します。
なので、大胆な推測は歓迎されるべきで、そのかわり、批判的なテストを十分うけるべき
です。
■ 確証性が高い推測は意味がない
確証性が高い推測は、反駁されにくく、成立する可能性が高いでしょう。ただそれは価
値は低いです。 は a である」のような反駁を試みる前から確からしい推測は、人類の進
「a
歩をもたらしません。一方で、大胆な推測は反駁されるまでは価値が高いです。ただ、た
またま運良く反駁に耐えている法則が、今のところ使える法則であり、永久に反駁されな
いことを保証しているわけではありません。また、テストがしづらかったりできない法則
は価値が低いです。
「ある場所である呪文を唱えると悪魔が出現する」という法則はほとん
どテスト不能なので、ほとんど価値がありません。
例えば、あたりさわりのない主張は批判が少ない代わりに価値が低いです。大胆な主張
は多くの批判を招きますが、批判に答えられれば価値の高いものになります。もっともい
けないのが、大胆な主張をしておいて批判を受け付けないことです。その推測はテストさ
れる真偽不明のものが、似非科学の知見があたかも正しいかのように蓄えられてしまいま
す。それは価値が低いどころか、害を及ぼします。
■ 白いカラス
ポパーの「推測と反駁」の続きです。
「白いカラス」の話をもう一度深く掘り下げてみま
しょう。
「カラスはすべて黒い」という法則と「カラスを 1000 羽観測したら 1000 羽とも黒
- 7. かった」は全然違います。前者は確証性が低い推測された法則で、後者は論理的に高い確
率を持った観測です。両者を混同している人たちはあらゆる分野の学者の中にもいると、
ポパーは指摘しています。ましてや「カラスを 1000 羽観測したら 999 羽黒く1羽は白かっ
た」という場合、
「カラスはすべて黒い」という法則は反駁完了しており一切成立しません。
「カラスはすべて黒い」という法則が高い確率で成立しているとは一切言えず、この法則
は全くもって一切成立しないのです。
■ 経験と法則の違い
「カラスを 1000 羽観測したら 999 羽黒く1羽は白かった」は、同一環境?条件で観測し
た場合「黒いカラス」のほうが論理的に高い確率で存在することだけを示しています。環
境が変われば異なる可能性があり、高い確率で成立する「法則?理論」と考えるのは危険
なのです。法則は観察の積み重ねで生まれるわけではありません。観察をしていて殆ど「黒
いカラス」だからといって「カラスは黒い」という法則は一切、生まれないのです。これ
は、過去データに頼る金融工学への警笛であり、ダレブがブラック?スワンと呼んだもの
もこれに相当するのだと思います。経験と法則はまったく違うものになることがあるので
す。
■ 実はパラダイム?シフトではない例
ポパーの「推測と反駁」の続きです。小さい話題をいくつか書こうと思います。
ポパーは一見「パラダイム?シフト」に見える思想の転換点においても、いつもどおり
の単なる「大胆な推測」に過ぎない例がいくつもあると指摘しています。例えば、天動説
から地動説は、パラダイム?シフトではないと指摘しています。地球が宇宙の中心である
という推測は、ある宗教の要請であり、太陽が宇宙の中心であるという推測も、ある宗教
の要請であって、ただそれだけのことなのです。実際、20 世紀になってから、いずれも反
駁された、というより、その推測自体あまり意味を持たなくなりました。というのも、宇
宙空間に 2 つの天体がある場合の運動方程式は、2 体問題とよばれ、完全に解かれました。
その結果、2つの天体の重心(どちらの天体でもない位置にある)を固定した座標系で計
算すると計算しやすいことが分かりました。また、アインシュタイン後の宇宙論の発展に
より宇宙に中心がないことが分かっています。
■ 反駁しにくいほうを立証しろと主張する詭弁
二つの主張が対立した場合、反駁しやすいほうをテストすべきです。というのも、反駁
しにくいほうを主張する人に「反駁できないことを証明する」ことは極めて困難であるか
らです。これは詭弁の一手法としてよく使われます。例えば、痴漢の冤罪事件では、
「痴漢
をしていない」という推測は、
「痴漢をした」という証拠がひとつでもあれば反駁可能で、
反駁しやすい大胆な推測です。これは「カラスは黒い」という推測に対して、一羽でも「白
- 8. いカラス」を連れてくればいいことに対応します。ところが、被告人は「痴漢をした」と
いう推測を反駁しなければならず、この推測は「していない」という証拠が必要ですが、
これは入手困難です。これは、
「白いカラスがいるかもしれない」という推測に対して、何
万羽の黒いカラスを連れてきて反駁しないといけないことに似ています。このように考え
ても日本の痴漢裁判は大変大きな問題を抱えているといえます。
■ 政治学への応用
実学応用に関しては、政治学への応用があります。実際、ポパーは推測と反駁を応用し
て、社会主義を批判し、
「開かれた社会」という概念を打ち立てます。これは組織論一般に
も展開でそうな考え方でもあるので、今後書こうと思います。
(第2部 推測と反駁 終わり)
第3部 開かれた社会
■ 「開かれた社会」とは
科学哲学者であるカール?ポパーは著作「推測と反駁 ~科学的知識の発展」
( http://www.amazon.co.jp/dp/4588099175/ )の中で、科学の発展の仕方を論じていますが、
その応用として、
「開かれた社会」という概念を打ち出しています。この概念により、当時、
学者達の中でも支持の広がりを見せていたマルクスの社会主義思想に対して真っ向から批
判をしました。
■ ヘーゲルの弁証法を悪用したマルクス
ポパーは、マルクスがヘーゲルの弁証法を悪用し、批判を封じ込めていると、批判しま
した。マルクスは弁証法でのべることを批判者に強要し、弁証法ではない方法での批判に
耳を傾けませんでした。批判すべき点があるのなら弁証法で批判できるはずだという論述
をマルクスは繰り広げ、巧みに批判をかわしてきたのです。マルクスが主張する弁証法は
ヘーゲルの主張から改悪されており、ヘーゲルにとっても不本意であったでしょう。
■ 民主主義 対 社会主義
民主主義対社会主義は長い間続きました。民主主義国家に住む学者達でさえ、社会主義
を支持する人が多くいた時代です。それでもポパーは、社会主義か民主主義かというイデ
オロギー以前の問題として、社会主義には批判を封殺する仕組みが内在しているという理
由だけで、社会主義はうまくいかなくなるとあてて見せたのです。批判の方法を批判され
る側が制限することは、科学的ではありません。つまり、政体として、うまくやっていけ
- 9. るかどうかは、
「批判はどのような手段で行ってもよい」というのが絶対条件であり、社会
主義であってもそれが成立していればうまくいく可能性はあるし、逆に詭弁を駆使すれば、
批判の手段を制限することが出来、うまく行かなくなる社会になります。ポパーは、この
違いを「開かれた社会」か「閉じられた社会」と区別するようになるのです。
■ 民主主義でも閉じた社会を構築可能
「開かれた社会」の続きです。民主主義であっても批判の手法を限定させて閉じた社会
が構築可能です。ブッシュ政権がイラク戦争を行っていたころ、ソロスは政権がこれをお
こなって閉じた社会を構築しようとしているとして批判しました。政権に対して取材が出
来る人を限定したり、陳情を特定のルートにしぼったりと、現代でもいろいろなテクニッ
クが使われます。社会を組織に読み替えれば、組織でもそのまま当てはまるものです。金
融工学系の学会では、学会発表するために、知り合いに討論者を頼まなければならないと
いった習慣があります。これも批判の手法を限定する巧みな制度なのです。
■ 批判させるのも難しい
批判というのは自動的には出てきません。継続的にうまくいく社会を作るためにはあら
ゆる手段で批判が出てくるようにしなければなりません。コストをかけてでも批判をかき
集めるような政体でなければ、だんだんと社会は「閉じて」いき、いずれ破綻します。民
主主義でもたゆまない批判の収集の努力がなければ、行き詰ってしまうのです。
■ ポパーが残した議論の「心構え」
最後にポパーが残した議論の心構えをそのまま書いておきます。
「私は自分が正しいと思うが間違っているかもしれない。そして君が正しいかもしれな
い。ともかくそれを討論し合おう。なぜなら、それによってお互いが自分が正しいと言い
張っているよりも、真の理解によりいっそう近づける見込みがあるからだ。
」
「お互い自分の意見を相手に納得させようとしているだけでは、それは議論ではない。
両者に、自分は納得させられるかもしれない、お互いのどちらの意見とも異なる第3の意
見に納得するかもしれない、という心構えがないと議論にならない。
」
(第3部 開かれた社会 終わり)