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樋口先生研究の歩み 縮小
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Yasushi Iwata
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东北大学工学部樋口龙雄名誉教授の文章です。
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樋口先生研究の歩み 縮小
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研究室事始 4 研 究
室 事 始 計測と制御第21巻第5号(昭和57年5月)より転載 学会創立2 0周年と卒業2 0周年 東 北 大 学 工 学 部 口 龍 雄 私は1958年に東北大学工学部に入学し,3年次に新設したばかりの電子工学 科に進学しました。そのころ,工学部は最も人気のある学部のひとつで,特に 電子工学科には多くの希望者がありました。これは1957年にスプートニクが史 上初めて打上げに成功し,電子工学が脚光を浴びたことも多分に手伝っており ました。計測と制御の分野に入った動機は,その専門分野を志したというより は,むしろ故菊地正先生の生き方,人となりに強く引かれたことが大きいとい えます。私は菊地先生に直接お目にかかり,その口から教えを聞きたいという 願いをもっておりました。その先生が電子制御講座を担当しておられたという わけです。ひるがえって現在の自分を考えてみますと,いつの間にか私が出会 った先生の立場,年齢になってしまいました。しかし,現在自分が学生に対し どれほどの影響力があるかを考えてみますと答は明白であり,まさに紐 泥(じ くじ)たるものがあります。 菊地先生の指導のもとで卒業研究,修士課程を終え,博士課程では低レベル ル磁気増幅器の増幅可能レベルを支配する磁気ゆらぎ雑音の研究をやってみて はということになりました。そのテーマはこの分野で残されている難しい問題 のひとつとされており,実際先生からは「ベトナム戦争みたいなものだがやっ てみるか」といわれました。要するに泥沼に入るようなもので脱するのに難し く,解決の見通しが立っていないということです。若いときというのは妙なも ので,そういわれるとかえってファイトがわいたことを憶えています。昨今解 決の見通しが立ちやすいテーマを与えがちの私としては,またまた反省せざる をえません。当時動的磁化過程における磁気ゆらぎ雑音の測定法そのものが確 立されておらず,各研究者により得られたデータは互いに矛盾するものが多く, どうにも説明のつけようがないという具合でした。これは零ドリフトと磁気ゆ ? 7 1 ?
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研究のあゆみ らぎ雑音を明確に分離して測定することができなかったことによります。そこ で,実験的な苦労はいろいろありましたが,零ドリフトの原因となる諸要因を 明らかにし,その影響を取り除く方策を見出すことにより,その精度を磁気ゆ らぎ雑音の値まで向上させることができました。その後種々パラメータを変え て雑音を測定しその 性質を解明すると共に,確率論的モデルを提案することに より,動的磁化過程における雑音の発生機構を説明することができました。こ のようにして,ベトナム戦争の終結よりは早く解決の見通しをつけることがで き,いささかほっとしました。 このような私にとってのベトナム戦争を通して,「学問的精神」を直接先生か ら教わることができたことはたいへん幸運でした。しかし,師と仰ぐ菊地先生 が1969年に急逝され,私はこれを機に今後何を研究すべきかという問題に直面 せざるをえなくなりました。それまでの私は制御というよりは,センサに代表 される計測の立場での研究を主に行ってきました。その立場から制御という分 野を眺めてみますと,建前上計測と制御は一体のはずですが,学問体系として は両者の間に大きなギャップのあることを痛感しました。そこで,計測と制御 の橋渡しをする学問体系は何かを考え今でいえばディジタル信号処理に当るも のに興味をもつようになりました。もちろん当時はLS I技術などの技術的背 景が伴わないため,ディジタル信号処理としての分野が形成されてはおりませ んでした。 その頃,当研究室では田所嘉昭氏(現豊橋技術科学大学)が実時間で動作す る専用ハードウエアとしてのサンプル値フィルタの研究を行っておりました。 これは先駆的な研究のひとつといえますが,当時は大型の汎用計算機万能の時 代で,それがあればほかはいらない式の話がないわけではなく,まだ確立され ていないディジタル信号処理の分野を周囲に理解してもらうのに苦労しました。 その後研究室では同氏の研究を契機として,またB.
Gold, C. M. Raderの "Digital Processing of Signals"において専用ハードウェアや専用計算機 による実時間信号処理の重要'性が指摘されていることにも力を得て,ディジタ ルフィルタやFFTの研究を本格的に行うことになりました。しかし,ディジ タルI c特にメモリは高価であり,まだ手軽に使える状況にはありませんでし た。このためディジタル信号処理は技術的背景が得られずLS I時代の到来ま で足踏み状態を続けることになります。 1972年になりますと,ワンチップ?マイクロプロセッサの話がしだいに耳に 入るようになりました。当初の4ビットマイクロプロセッサは汎用計算機に比 べれば,明らかに 性能や機能の点で劣っておりましたので,これは無理からぬ ところでしょうが汎用計算機の立場からの反応は冷やかなものがありました。 私達はマイクロプロセッサをディジタル信号処理の専用計算機としてどうだろ ?72?
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研究室事始 うかと考え,ただちに検討を開始しました。しかし,インテル社のマイクロプ ロセッサを入手することはできず,鹿股昭雄氏(現仙台電波高専)を中心とし て研究室ゼミを行っておりました。その後1974年日電のマイクロプロセッサ u COM-4が商品化されましたのでさっそく入手し,手始めにディジタルフィ ルタ実現上の問題点を明らかにすることができました。その頃は現在のように サポートソフトウエアなどが完備されておらず,システム化に際しては苦労が ありました。これを基礎として研究室では高速でプログラム容易な信号処理プ ロセッサのアーキテクチュアに関する研究が行われるようになりました。 一方,研究室ではディジタルフィルタの有限語長に起因する特性劣化が最小 となるフィルタ構造を決定する問題,すなわち合成問題にも着目しておりまし た。その頃ディジタルフィルタは,通常入出力関係のみに着目した伝達関数で 記述されておりました。しかし,与えられたひとつの伝達関数を満たすフィル タ構造は無数に存在し一意的に表現することはできないため,いわば個別的取 り扱いがなされておりました。これに対し,状態方程式でフィルタ構造を記述 すれば,任意の構造を一意的に表現することができ,統一的取り扱いが可能に なると共に,マトリクス理論や制御理論で確立された手法が利用できることが 期待されます。そこで,1972年太田直久氏(現電々公社武蔵野通研)が卒業研 究において状態方程式に基づくフィルタ構造の取り扱いを行ったことを契機と して,同氏,さらに川又政征氏(東北大学工学部)らによるディジタルフィル タの統一的合成理論へと発展しました。このような考え方は,1979年に刊行さ れたA、S. Willskyの"Digital
Signal Processing and Control and Estimation Theory"にも見ることができ,ディジタル信号処理と制御理論の両分野の統一 的取り扱いについて制御理論側からの記述がなされております。 同じ頃,私達は多値論理の特長を生かすには,専用ハードウエアや専用計算 機を対象とするのが適当であり,特に加算,乗算などを主体とするディジタル 信号処理に最も向いていると考えておりました。それまで一般に多値論理シス テムの研究は,背景となる回路技術が十分ではなく,トランジスタなどの個別 素子に基づくシステム構成に依存していたこともあってその特長を生かすこと ができず,工学的意味でのインパクトを与えるまでには至らなかったといわれ ておりました。そこで,初めてディジタル信号処理の立場から多値論理システ ムの研究を行うことになり,まず1972年亀山充隆氏(東北大学工学部)が卒業 研究において多値論理回路網を合成する基本ブロックとしてTケートが重要で あることを見出し,さらにTゲートの数学的構造を明らかにしたうえで合成理 論を確立しました。なおこの研究がひとつのインパクトになりTケートは,1977 年シグネテイックス社により史上初めての多値I cとして実現されるに至りま した。その後,上記の研究を背景として研究室では,3値ディジタルフィルタ, ?73?
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研究のあゆみ マイクロプログラム制御方式の3値計算機,多値画像処理プロセッサなどの研 究が行われるようになりました。 最後に20年の感想として,仙台一高の先輩の井上ひさし氏の一文を引用しむ すびに代えたいと思います。「そして一方には,ここ数年の,集積回路(IC) のおどろくべきコストの低減がある。二十五年前に一億円もした計算機がいま は千円で買える。いま,二十万円で市販されているパーソナル?コンピュータ の機能は,十年前の一千万円のコンピュータに匹敵するというのだから,ただ ごとではない。(中略)超LS Iが実用化すれば,現在の大型コンピュータが手 の平にのるだろうともいわれているし,自動言語翻訳機の前途は洋々たるもの のようだ。(中略)すくなくとも,よい,そしておもしろい文学には,コンピュ ータは永遠に音をあげつづけることになるだろう。政治文書,事務文書,学術 文書はとにかくとして,個 性的な文章やおもしろい文章やよくできた比愉は, 常にエントロピーが大であるからだ」(『私家版
日本語文法』新潮社) (昭和56年9月7日受付) ? 7 4 ?
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退官を迎えて 5 退 官
を 迎 え て 曙光(東北大学大学教育研究センター広報) No. 14 (2002. 10. 1)より転載 個の体験を通した学問へのモチベーション 情 報 科 学 研 究 科 教 授 口 龍 雄 大学教育センター長としての星宮先生から、センター広報(曙光)に退官(予 定)教官による学問論を掲載したいので書きなさいとのお話を頂いた。普遍的 な学問論はいささか荷が重くその不明を恥じるばかりであります。また、普遍 的な学問論はそれぞれの立場で権威のある方々がこれまで多数述べてもおられ ます。そこで、自分の個の体験を通して、個の体験こそは「自分にとって学問 のより根源的と思われるところ」を形成しているのではないかとの思いを述べ ることに致します。これも「現場主義」を標傍する本学ゆえにお許しいただけ るものと思います。その際、より根源的な事柄に触れるためには、どうしても 話題が個人的になってしまうことをあらかじめお断りしておきます。 私が中学生の頃父からよく北御門良夫氏の話を聞かされました。氏は昭和十 二年、本学機械工学科を卒業し某会社に就職しました。ある日北御門良夫氏は 父を訪れ、「工場では機関銃を作っているが、どうしても武器製造に直接加担し たくない」との理由からしばらく研究室において欲しいとの話でした。当時の 状況からすれば、そのことは弾圧を受けるかも知れず、経済的にも大変苦しく なることを意味します。父は研究室に迎え、氏は戦後国立大学の教授を務め、 退官後は郷里の熊本で余生を過ごしました。そのような門下生北御門氏の生 き方に対して、生前父は大変敬愛しておりました。 そのおり、良夫氏には面白い弟がおられることも聞きました。青年時東京大 学の英文科に進むが授業に飽きたらず退学、死を覚 悟して徴兵拒否を貫きまし た。いまは熊本の山奥で晴耕雨読の生活を送り、農民のように、いや農民とし て生きていると。それを語るときの父は、何か遠くを見ているようでもありま した。本当は門下生でありながらそのような生き方ができる二人の兄弟がなか ばうらやましく思っているだろうことは、中学生の私にもすぐにわかりました。 ? 7 5 ?
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研究のあゆみ その頃私の兄は大学生で、親友と二人ザックを背負い九州の山々を数週間か けて踏破する計画を立てていました。その行程にはもちろん山登り姿で北御門 氏を訪ねることが含まれておりました。当時氏は今のように名が知られている わけでもなく、真から農民でありました。農耕のかたわらトルストイ研究に専 念しつつ、絶対的非暴力の思想と立場をとっていました。北御門二郎氏と兄と の出会いはどのようなものであったか、ことさら聞いてはおりませんが、後の 兄の生き方に何らかの影響を与えたのではないかと私は想像しております。一 方私はといえばうらやましくもありましたが、兄とは異なる道を歩むべきであ ろうと思っていたこともあり、本学教養部学生のとき九州ではなく、北海道の 山々を踏破しました。 北御門二郎氏のことは?それから四十年とりたてて私の身辺では話題にはな っておりませんでした。というよりは氏の生き方についてことさら家族に話を しておりませんでした。北御門氏とは、時代も置かれた環境も違います。表面 だけ真似されても困るという意識が私にはありました。ところが今は社会人に なった子供が、何かのことで北御門二郎氏の名を挙げました。たまたま東京の 書店で、ある出版社から出されている氏のトルストイ翻訳を見つけ出し大変気 に入ったという。これまでの翻訳家によるものとは異なる感動があったという。 私がこれまでその名を挙げたことがないにもかかわらず、北御門氏が共通な話 題になったことに内心驚きもしましたが、これを機会に初めて北御門氏とのこ れまでの縁を語りました。 その後、NHK教育テレビスペシャル「イワンの国のものがたり」として全国 放映され、熊本の山奥が知られるようになりました。北御門二郎と 地久枝と の対話形式の本「トルストイの涙」エミール社も出版されました。いつまでも 「晴耕雨読する一人の農業者」であって欲しいと切に願うものであります。 話はこれだけであります。しかし、中学生の頃から今日に至るまで、私は氏 のことがずっと気になっていたことは間違いありません。北御門二郎氏と私に は直接的な交流、関係はありませんが、冒頭述べました「自分にとって学問の より根源的なところ」をかなり形作っているような気がします。かって矢内原 忠雄は、師の内村鑑三との関係について「先生に個人的に親しく接近した弟子 は、先生との間に思想や感情の衝突を来した者が少なくない?」ことにふれ、自 分は「聖書の真理を学ぶ師弟の公的関係に限定する態度を取り」の立場を貫い たことを記しております。この例を見るまでもなく、必ずしも個人的関係が緊 密であるのがよいかどうかは、この際問題ではありません。 学問を志すとき、画一的ではない個の体験こそが他人とは異なるパワーを生 み、学問へのモチベーションになるのではないでしょうか。個こそが学問を生 み出します。「自分にとって学問のより根源的なところ」はおそらくマグマのよ ?76?
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退官を迎えて うにどろどろしたものかもしれません。そのためには青年期の人との出会いが 大きいと思います。その頃私はわが道をいくタイプのおじいさんとか、峠の一 軒屋の茶店のおばあさんとか、なにかそんな味のある人を尋ね求め、出入りを していました。これらの出会いがるつぼで溶かすようにしてマグマになり現在 まで学問研究をする活力になっているような気がします。 本学は多士済々の教官陣を誇っており体系的な講義やさまざまな工夫がなさ れよく整備されています。しかし、若い学生と教官との個の体験はほとんどみ られません。東北大学という大きな組織のなかに小振りな「塾」のようなもの を内包し、他の人とは違った画一的ではない個の体験をさせることはできない ものでしょうか。どこの学部に属しているかには関係なく、希望する学生が個 の立場で自発的に教官を尋ねたりしやすいシステムを作ることはできないでし ょうか。現状では学生の自覚を期待するのでは遅すぎます。大変とは思います が、時代に合った個の体験の仕組みが侯たれます。 ? 7 7
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