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日本大学 総合科目(日本大学トリビア?クイズ)




問1       日本大学予科で実際にあった出来事を選びなさい。(複数選択可)
A. 生徒一同が、配属将校の受け入れに反対した。
B. 教室を修練道場と呼び、神棚が安置されていた。
C. 軍事教練で、陸軍戸山学校軍楽隊の演奏を聴いた。
D. 勤労動員で北海道に行き、援農作業に従事した。


Ans. C,D
問 2 昭和33年から44年にかけて日本大学会頭であった【 A 】は、日本大学を世界一流の水準
に引き上げるため、時代のニーズに合わせた学部や研究機関を設置すると共に教授陣を充実し、それら
を実現するための財政基盤の確立に奔走した。しかし、財政を重視した大学運営は「経営主義」と批判
を受け、昭和43年に起こった日大紛争の一因ともなった。


上の文章中の【 A 】にあてはまる適当な人名を答えなさい。※漢字で入力し、空白(スペース)を入
力しないこと。


Ans. 古田重二良
問 3 上の文章中下線部の日大紛争が下火となった、昭和44年以降の出来事を選びなさい。(複
数選択可)
A. 第二次ベビーブーム
B. 第一次オイルショック
C. ソ連軍等によるチェコ侵攻
D. 日米安全保障条約の改定


Ans. A,B
問4       次のうちから、木村秀政に最も関係するものを一つ選びなさい。
A. 臨床諮問会
B.   『聖書の世界』
C. YS-11
D. Iron will


Ans. C
問5 敗戦直後、水泳競技で次々と世界記録を更新し、スポーツ選手としては初の文化勲章を受賞し
た人物はだれか。漢字で答えなさい。※空白(スペース)を入力しないこと。


古橋廣之進



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日本大学 総合科目(日本大学トリビア?クイズ)




問 6 敗戦後の混乱期に教育の機会均等という目的から誕生した大学通信教育は、昭和 40~50 年
代以降、新たな役割を担うこととなりました。その新たな役割とは何か、次の中から選びなさい。
A. 社会教育
B. 家庭教育
C. 企業教育
D. 生涯教育


Ans. D
問7 次の中から誤りを一つ選びなさい。
A. 大阪会議の結果、三権分立主義が提唱され、立法府として元老院、司法府として大審院が設置
   された。
B. 伊藤博文は、フランス人ボアソナードの助言を得て、大日本帝国憲法を整備した。
C. 明治 4 年岩倉使節団が欧米に派遣され、山田顕義?金子堅太郎も派遣された。
D. 明治 14 年の政変を契機に、政府の憲法構想はイギリス?フランス流から、より民権色の薄いプロイセ
   ン?ドイツ流構想へと転換した。


Ans. B
問 8 次の中から誤りを一つ選びなさい。
A. 日本における近代法学教育は、明治5年9月に司法省明法寮で開始された法学教育から始まっ
   た。
B. 明治 19 年、「大学令」が公布され、東京大学は帝国大学となった。
C. 代言人制度の整備により、私学でも、それまでの私塾的な法学教育ではなく、近代的学校制度に
   よる体系的な法学教育が必要となった。
D. 明治5年には学制が公布され、小学校?中学校?大学の三段階を基本とする学校制度が体系化
   された。


Ans. B




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日本大学 総合科目(日本大学トリビア?クイズ)




問 9 次の中から誤りを一つ選びなさい。
A. 明治 22 年1月、山田顕義は神官?神職を養成し、国典を講究する目的で設立された皇典講究
   所の所長に就任した。
B. 山田顕義が構想した国法?国典?国史教育機関は、国法教育は日本法律学校で、国典?国史教
   育は國學院で実施された。
C. 日本法律学校は、三崎町の空地を買い取って開校された。
D. 司法省より日本法律学校に対して特別保護が与えられるという風聞が広まり、五大法律学校から
   批判の声があがった。


Ans. B
問 10 次の中から誤りを一つ選びなさい。
A. 山田顕義は岩倉使節団の際、司法省理事官(正しくは兵部省の理事官)として司法制度の調
   査?研究(正しくは兵制調査)にあたった。
B. 宮崎道三郎は、森鴎外や穂積八束とともにドイツへ留学した。
C. 日本法律学校が認可された時期、金子堅太郎は欧米に渡航しており、日本にいなかった。
D. 金子堅太郎はアメリカのハーバード大学で法律を学んだ。


Ans. A




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日本大学 総合科目(日本大学トリビア?クイズ)




コラム
日中戦争開始から間もない、昭和 12 年 8 月の「国民精神総動員運動実施要綱」の閣議決定以降、
社会生活は全般にわたって戦時体制へと向かいます。各教育機関では、自主的に学徒(学生と生徒
の総称)を公共施設の清掃や軍需工場での作業に派遣する等していました。こうした活動は文部省指
導の下、学校報国団として組織化され、太平洋戦争開始の前後から次第に学校教育の中での比重は
大きくなり、昭和 20 年度になると、中高等教育機関の教育活動=勤労動員といっても過言ではない状
態になります。


また、大正 14(1925)年 4 月の「陸軍現役将校学校配属令」と、昭和 2 年の「兵役法」
「陸軍補充令」による幹部候補生制度は、中高等教育機関の修了者と陸軍との繋がりを強めていきま
す。日中戦争がはじまると、軍は不足する初級指揮官の供給源をこうした予備役士官に求めます。そし
て昭和 16 年度以降の在学期間の短縮、18 年 10 月の「在学徴集延期臨時特例」の公布により、多
くの学徒が軍に身置くことになりました。




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日本大学 総合科目(日本大学トリビア?クイズ)




教職員の出征


太平洋戦争と大学と聞くと、「学徒出陣」による学生生徒の出征を思い浮かべるのが、
一般的だと思われる。しかし、教職員も 20 代?30 代で軍籍にある者達は、召集され、
戦地に出征していった。
 それは日中戦争から始まっており、盧溝橋事件から間もない昭和 12 年8月に召集された、
高等工学校の教員 2 名は、同僚教職員?教え子?校友の盛大な見送りを受けて、入営した。
彼らは、その後戦地での様子を、校友会誌『駿工』に寄稿している。
9 月には、理事会において下記の「応召者待遇規定」が決議された
(※応召者とは召集に応じた者、つまり召集中の者)。


 第一条 支那事変ノ為召集セラレタル教職員ノ待遇ハ本規定ニ拠リ実施スベシ
 第二条 召集部隊ヨリ受クヘキ応召者ノ本棒本学ニ於テ支給スル本棒ヨリ低額ナルトキハ
           其差額ヲ支給ス
           但召集部隊ヨリ受クル本棒月額二十円未満ナルトキハ本棒全額ヲ支給ス
 第三条 応召者ハ本学在勤者ト看做シ其補充ヲ為サス
          但已ムヲ得サル事情アルトキハ状ヲ具シ認可ヲ経テ臨時補充ヲ為スコトヲ得
 第四条 本給与ハ応召月ノ翌月ニ始リ召集解除ノ前月ヲ以テ停止ス
 第五条 本給与ノ請求及異動届出ハ本人又ハ代理人ヨリ所属部科校ニ為スヘシ


 この規定によれば、召集中も日本大学在職中と同じ給与が支払われ、
復職後の立場も保障されている。そして、太平洋戦争が始まるとその数も増し、
開戦から約 1 年後の昭和 17年 12 月には、表にあるように 110 名もの教職員が召集されていた。


昭和 17 年 12 月 15 日現在の応召教職員数
     本部 法文 商経 工学 学部計 専門部 予科 合計
教授    0     0   0   0   0    1   0     1
助教授 0       0   0   0   0    2   0     2
助手    0     0   0   0   0   41   0    41
副手他 0       0   0   0   0   32   0    32
講師    0     0   0   1   1    6   2     9
教練教師 0 0 0          1   1    4   5    10
事務所       2 1 1     0   2    7   1    12
康人        0 0 0     0   0    2   1     3
合計        2 1 1     2   4   95   9   110



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日本大学 総合科目(日本大学トリビア?クイズ)




問 11 次の記述の中で間違っているものを一つ選びなさい。
A. 日本での本格的な学生運動は、慶応大学の「150日闘争」が最初である。
B. 日本大学全学共闘会議(全共闘)の議長は、経済学部の秋田明大である。
C. 校舎を封鎖した経済学部?法学部に機動隊が突入し、経済学部では機動隊員が重傷を負い、死
   亡した。
D. 昭和43年9月30日、日大講堂で全共闘と日本大学執行部との大衆団交が行われた。


Ans. A
問 12 次の記述の中で間違っているものを一つ選びなさい。
A. 東大の安田講堂を占拠していた学生達が逮捕された後、学生運動は下火に向かった。
B. 学生運動による授業休止が長引くと、就職活動にも影響が及び、授業再開を望む声が高まった。
C. 日本大学で初の公選による総長選挙が実施され、高梨公之が選ばれた。
D. 紛争後の「三ヵ年計画」の要旨は、「愛情教育」「施設設備の拡充」「事務機構の改善?経理機構
   の合理化」の3つである。


Ans. C
問 13 次の記述の中で間違っているものを一つ選びなさい。
A. 『日本大学新聞』は一度廃刊され、その時退社した有志社員が『日本大学学生新聞』を発刊し
   た。
B. 大学紛争後に入学した学生には、紛争に対して醒めた見方をする者もあった。
C. 昭和44年から日本大学の全学統一行事は中断され、統一入学式は昭和51年から再開され
   た。
D. 第二次オイルショックの影響で高度経済成長は終わり、学生にとっては就職活動が厳しくなった。


Ans. D
問14      次の記述の中で間違っているものを一つ選びなさい。
A. 昭和55年の大学生数は、昭和30年の約3.5倍である。
B. 新制大学が出来た当初、女性を受け入れたのは国公立大学だけである。
C. 働きながら通学する学生は次第に減少し、昭和50年代になると文理学部?商学部等の第二部
   が廃止された。
D. 昭和50年代には、「リクルートスーツ」「リクルートスタイル」と呼ばれる、会社訪問や面接向けの服
   装や髪型が登場する。


Ans. B




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日本大学 総合科目(日本大学トリビア?クイズ)




コラム
日本大学におけるスポーツ活動と文化活動について考えていきます。
はじめに日本大学とスポーツ活動のこれまでの歩みについて説明をしていきます。


現在、日本大学には、35 の競技部が保健体育審議会(日本大学の中に設置されたもの)の
傘下にあり、全国大会等で各競技部は活躍しています。このように目覚ましい活躍をしている
本学運動部は、いつ頃から設立されたのでしょうか。


なお、大学から公認される以前より活動していた運動部もあるため、
運動部の創設年と部の活動時期については、必ずしも同一ではありません。
よって、本学の運動部の創設時期については、日本大学保健体育審議会で
把握している情報にもとづいて紹介していきます。


スポーツ?文化活動は、学生が中心となる活動ですので、
これらの活動を通観することで、各時代の本学における学生生活?学生活動の
一端を垣間見ることができるでしょう。


日本大学は、創立以来 120 年の歴史を有し、幅広い分野の教育組織?設備を有する総合大学です。


校友数は約 100 万人に及び、本学に関係した多くの日大人が、様々な分野で活躍をしています。


すべての分野の日大人を紹介するということは不可能ですので、各分野で活躍した 4 人を紹介します。


まず法律分野として、独学者に法曹の道を開いた
元日本法制学会会長の澤野民治[さわの みんじ]、


医歯系の分野として、本学の歯学部のみならず日本の歯学界の発展に
尽力した元日本大学理事長 佐藤運雄[さとう かずお]、


理工系の分野として、日本航空界の重鎮であり、「人力飛行機の日大」の
名を世界に広めた元理工学部教授 木村秀政[きむらひでまさ]、


芸術の分野として、世界の名山に挑んだ写真家
白川 義員[しらかわ よしかず]。


                                              以上


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